自分史~早稲田スポーツマン三代記


 『初代』亡父そう(そうツ)ほ(ほう)は昭和十年商学部卒のサッカーマン、地味で几帳面な性格。サッカーには高等師範学校(現筑波大学)付属中学時代から没入したようであった。師範付属の記念誌の試合結果一覧に父がフォワードでプレー・得点していた記事が掲載されていたが、早稲田最終学年ではマネージャー兼務で裏方をもしていたようだ。当時の日本サッカー代表選手は大学選手が主力で今のアジア大会に相当する海外遠征に出かけていたので、苦労しながら主将不在のチームを良くまとめていたと評価されていたようであった。

  卒業の年、現(株)東芝の前身・東京電気に入社、早稲田の先輩とともに堀川町工場サッカー部を創設し、二度に亘る第二次大戦での中国北部への出征も無事乗り切り帰国、40歳頃まで長く監督兼任でプレー、それ以降監督に専念して、東芝サッカー部(現在の札幌コンサドーレの母体)の礎を築いた。そんな父が私と弟(六七年理工卒)を物心つく頃から、東芝の試合や練習のある日曜日に連れ出し、いつも合間に選手とボール蹴りの練習をさせていた。

  早稲田現役の試合もよく応援に行き、試合後の現役への訓示が往々にして長くなり、日本サッカー協会キャプテン・川淵三郎さんや、小田原サッカー協会顧問・杉本錦治さん(東芝OB)らが、現役学生のころ「先輩、短くお願いします」と良く言われたこともあったそうである。現鎌ヶ谷稲門会の岩本隆良会長はサッカー部四年時、就職の相談に東芝のオフィスを尋ね、「うな丼を二杯もご馳走になった」と未だに懐かしげに話しておられるほど学生は可愛がっていたようである。

  特に『二代目』私が小六・中一のころ、毎年国立競技場で行われていた早慶サッカー定期戦に連れられて行き、超OB戦に出場していた父を見た時に、このような「場面」「仲間」を持っている父に「尊敬」を感じたことが、私の早稲田への第一歩となった。将来は早稲田でサッカーをと決めていた私ではあったが、当時の公立中学にサッカー部は無く、また今のクラブ組織も無く、体育の先生に誘われるままにバレーボールを始めた。

  昭和三五年二月早大高等学院の入学試験時には、当時の大学サッカー部工藤監督に父に連れられ東伏見のグランドへご挨拶には行った。当時の大学は八重樫キャプテンの時代で、寒風吹きすさぶ中での練習に目を見張ったものだった。  

  そんな父は、その後の息子達が二人ともバレーボールに熱中したことには残念がっていただろうが、我々の試合にはよく応援に来てくれていた。

  学院時代は、十二名の仲間でそこそこのチーム。東京都の公式戦も三・四回戦どまり、6大学付属高校リーグ戦が毎年夏「田園コロシアム」のメーンコートで行われていたが中位で定着、「早慶定期戦」三年生の時が新築の記念会堂で負け戦、これがその後一生付いて廻っている。未だに同期生との飲み会の度に、「エースで主将のお前のせいで負けた」という話が何時も出る。

  大学では、従来の9人制バレーに新たに加えられた6人制を含め、春秋の2シーズンに6・9人制の両リーグ戦を戦うハードスケジュールであったが、二年生からは殆どの試合に出場、インカレ三位の成績も上げ、四年では副将を勤めた。強いチームではなかったが三十九年卒業時は一部に残留、一応の責任を果たし充実した四年間であった。

  二年先輩の縁で日本ビクターに入社、経理部配属。毎年大阪での都市対抗6人制バレー(現・黒鷲旗全国選抜大会)にも常連チームとして出場し、中々ベスト8に残れずにいたが、昭和四一年七月・9人制全日本実業団天皇杯に優勝した。これでバレー人生での一定の達成感を味わい、四五年春に現役を引退させてもらい、仕事中心に切り換えた。現役を退いた年に大学バレー部コーチに就任、その矢先に上司から出た米国駐在の話も、会社として初の経理の海外トレイニーに身体・態度も声も大きく(一見?)タフそうな人間を選びたいと言う人選だったようだ。

  渡米後約半年間のニューヨーク本社勤務から移動したロス営業所時代は、仕事はもとより友達作りに的を絞り、二年後に結婚した家内共々日系三世の若者たちのバレーチームにプレーイングコーチとして参加、大いに楽しませてもらった。ゲームは毎週金曜日6時過ぎから8人制で行われ、8人のうち2人は女性(内一人は結婚後は家内)で、三回のボールチャンスに一回は女性がボールに触れなくてはいけないルールであった。女性の強いアメリカならではのルールを体験できたが、その後どの国でもお目にかかったことのないルールでもあった。

  この5年にわたる米国駐在時代にロスで生まれたのが『三代目』長男・せいざん(せいざんロ)である。名前は祖父そう(そう名)ほ(ほう)が名付けた。将来「名前」がもたらす効能を、自分の珍しい「桑畝」(漢文の先生以外には誰も読めなかった)という名前での経験から、男らしい壮大な、そして一度聞いたら決して忘れられない名前を付けてくれたのであった。

  昭和五四年小学校一年生の夏に2人の弟達と一緒に、私の二度目の海外駐在地ドイツ・フランクフルトへ渡航、中学に入るまでギムナジウムを含む六年弱をドイツ現地校で過ごさせた。当然すぐ下の弟と一緒に地域のサッカークラブに九月の新学期開始と同時に参加させ、現地化をスタート、友達作りに大いに役立った。

  日本での中学入学に合わせ単身で帰国させ、親子共々好感を持ったつくば市の「茗渓学園中学高等学校」に入学、初めて親元を離れての寮生活を始めた。「寮生活に馴染まなければ?ラグビーが好きにならなければ?フランクフルトに帰って来い!」と発破を掛けて送り出したが、思惑通り茗渓学園男子の校技であるラグビーに自分の生きがいを見つけたようだった。

  中二の時に秩父宮ラグビー場で行われた東日本中学校選手権大会で優勝、高一で全日本高校選手権(花園大会)リザーブながら優勝、高二で第三位、高三では花園に出られなかったが、卒業前の高校ジャパンにNO8で選ばれウエールズ遠征をエンジョーイし、それなりに集中・努力する男に育っていった。私も仕事のスケジュールを調整して、ウエールズ・カーデフでのテストマッチを観戦に出かけ、親バカ振りを発揮してしまったものだった。

  弟が二人いたので、できれば大学は国立へと意識付けをしていたが、高三の五月連休に帰省し、久しぶりの親子対話で「国公立ではなく早稲田へ行きたい」「理由は?」「ラグビーやるなら早稲田でやりたい。世界に通用するのが早稲田のラグビーだから・・」 私は即刻ゴーサインを出した。幸い平成三年度の学校推薦で人間科学部に入学を許されると同時に、ラグビー部寮への入寮も許され、まさかの親子三代早稲田スポーツマンが実現できた。この時まで初代が存命していたならば如何ほど喜んでくれたことかと、改めて親父を偲んだものだった。

  全国から俊英が集る早稲田ラグビー部で、一年生の秋から特に七人制ラグビーなどで「赤黒」を着れるようになり期待していたが、二年生終了時に当時の明治大の強力なフォワード陣に対抗すべく専門の三列(フランカー・No8)から、一列(プロップ)へのコンバートが決定した。いよいよ「赤黒」が着れると思った矢先のセレクションマッチで首を痛めた。医師の診断の結果NGサインが出て選手活動の継続を断念し、新人教育係に転向せざるを得なくなった。しかし後輩指導に意義を見出し最後まで熱心にラグビー生活をやり通した。

  卒業時には高校生達を夢の「花園」に送り込みたいと高校教師への就職を目指してTRYしたが、少子化時代到来の公立高校教師への就職はコネナシでは難しく、日比野 弘教授(現日本ラグビー協会名誉会長)に推薦された筑波大学大学院で、コーチ学を修め、現在は三重県の私立高校で職を得て、ラグビー漬けの教師生活を送っている。

  長男は、中学入学と同時に親元を離れ、始めた寮生活を大学院卒業まで続け、遠方への就職も含め家に落ち着いてわれわれ親兄弟と一緒に過ごす時間は少なかったが、兄弟の間ではカリスマ的存在感を示している。

  子どもは幸い?男三人授かり、内二人がラグビー、一人がサッカーにと、大学はそれぞれ異なるが全員体育会に所属、わたし(二代目)のバレーを継いでくれた者は一人もいないが、それぞれ自分にあった道を歩いてくれている。かなりの部分で息子たちの進路に影響を与えたが、家内共々教育方針としてクラブ活動に参加させていた大きな目的は「集中」「思いやり」「友達作り」を実践することであり、これは実現できたと親は胸を張っている。

  早稲田四代目が育つかどうかは、孫たちの成長を楽しみながら見守り、まだまだ結論は出せないが、「絆」の出発点は父(祖父)であり、早稲田であることには相違ない。

「継続することは偉大なり」である。 感謝・早稲田!

西川 誠之(六四 商)
西川 誠山(九五 人科)